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映画「汚れたミルク~あるセールスマンの告発~」伏見ミリオン座・・・この問題がまだ続いていることを知る必要がありますし、大企業を脅かすだけの声をあげるべきなのです。即座に解決できるとは思いませんが、この映画はその一歩になりうると信じています。

『….この問題がまだ続いていることを知る必要がありますし、大企業を脅かすだけの声をあげるべきなのです。即座に解決できるとは思いませんが、この映画はその一歩になりうると信じています。』このコメントは主役のアヤン役/イムラン・ハシュミのコメントです。

伏見ミリオン座にフェアトレード産品を搬入に行ったときにふと看板を見て、この映画を見ようと思った映画「汚れたミルク~あるセールスマンの告発~」

以前、多国籍企業のネスルがアフリカで乳幼児のミルクを販売してそれがもとで命を落とす事件があったことを聞いていて、「今度はパキスタン?」 も~すでに終わったことではなかったのか?と思い見た。これは実際にあった話で、しかもネスルのミルクを売るセールスマンの告発の話なので、どのような手口で販売していくのかがよくわかる。また敵に回したらどんなにこわいのか分かる。実際主人公は7年も妻や子と会えず、両親の死に目にも会えなかった。が今はカナダでタクシー運転手として家族で暮らしているそうです。スノーデンも今はロシアで彼女と暮らしているということですが、故郷を離れなければならないことを覚悟で(家族含めて命の危険も)自分の良心に従った若者の映画を続けて2本も見たことになる。すごいとしかいいようがないから一人でも多くの人に見てもらい、多国籍企業とは何か、私達がふだん飲んだり食べたりして多国籍企業の片棒を担いでいないだろうか? それは弱い立場の人達の犠牲につながっている筈。それにしてもこのような映画を作ったこともすごい。ネスレの名前が出てくる、一度は。そのあとは「名前を替えたほうがいいね」と違う名前で話は進む。スノーデンの時もスクープするジャーナリストのこれまた命をかけるような取引、良心のある人はいる!

以下はHuman Birth Parkより

1960年代、先進国では出生率が軒並み低下し、乳業メーカーは、市場が縮小する分を埋め合わせようと第三世界へ進出した。過剰な広告をして、産院には膨大なサンプルを渡し、専門家達には贈り物をして旅券や学会を世話した。

産院ではミルクが過剰に使われ、人工栄養の赤ちゃんがどんどん増えた。母乳は、赤ちゃんが母親の乳首を直接吸う刺激によって作られる。粉ミルクを使いすぎると、母親の体に「母乳を作れ」という指令を送ることができないのだ。

この人工的な母乳不足は、清潔な水や消毒設備が得にくい国々では、たいへんな結果を招いた。細菌が繁殖したミルクを飲むことになったばかりか、粉ミルクを買い続けられる経済力がなく、薄く溶いたミルクを飲ませる人もたくさんいた。このため、下痢や栄養不足で、たくさんの赤ちゃんが命を失った。

これに対し、欧米の市民活動家や小児栄養の専門家たちは、抗議を始めた。中でも、シェアの半分を占めていたネスレに対するボイコット運動は大規模で、1977年に米国で始まり、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、英国、スウェーデン、西独に広がり、一次だけで7年間も続いてその後も繰り返された。WHOコードは、こうした抗議行動の成果として、企業が営利本位に暴走することから赤ちゃんを守るために作られた。

WHO(世界保健機構)とユニセフによる「母乳代用品の販売流通に関する国際規準」=通称「WHOコード」 Human Birth Parkより

ウキディペアのネスレ・ボイコットより

1960年代、ネスレ社を含む多くの乳幼児食品販売会社は東南アジアなど発展途上国に進出し、粉ミルクを中心として産院や病院に対して職員を派遣し出産祝いに粉ミルクのセットを贈るなど人工乳による育児を奨励してきた。しかしその結果多くの問題が発生したとして、小児科医師栄養士を中心として告発が相次いだ。その問題とは、

  • 人工ミルクの使用により、本来母乳が充分に出る母親の母乳分泌が不活発になる(乳児が乳首を吸う刺激により母乳はつくられるため)。
  • 人工ミルクを購入し続ける経済力に乏しい家庭において母乳不足が生じることで、ミルクを過度に薄めて与える状況が発生し、乳児の深刻な栄養欠乏がおこる。
  • 衛生状態の悪い環境、不潔な水によって作られた人工ミルクにより乳児の病気が多発する。

などである。 1939年から始まったこの告発と抗議行動により、1970年代半ばに問題は国際化した。1979年には世界保健機関国際連合児童基金によって国際会議が行なわれ、1981年、「母乳代用品の販売流通に関する国際基準(通称:WHOコード)」が賛成多数で採択された(日本は棄権)。こうした動きのなかで1977年、女性を中心に当時の乳児用粉ミルクの最大手だったネスレ社を相手にした不買運動、ネスレ・ボイコットが開始された。

経過[編集]

  • 第1回ネスレ・ボイコット
1977年開始。1984年にネスレ社が全面的にWHOコードを受け入れを表明。
  • 第2回ネスレ・ボイコット
ネスレ社がWHOコードを守っていないとして1988年開始。終息宣言されていない。

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