SVAクラフトエイドの企画 ラオス・タイにクラフト生産者を訪ねる旅に行ってきました。
朝7時にホテルを出発して、3時間ほどで帰還難民の村、シビライ村に到着。SVAのスタディツアーの生産品では、ハートマスコット・財布があり2006年のカタログではショルダーバッグもあり、それはとても素敵な彩りのクロスステッチが施されていました。
そんな村を直接訪ねるということは、本当に心待ちした瞬間でした。前もっての説明どおり、斜面にはりつくような感じで家があり、ばんばんトラックなどが走る道路をはさんで、また斜面に家がある。そんな村でした。
ワーピアション村長さんの話に寄れば村民は243人、うち女性は122人。15歳以下は115人と子どもがいっぱい。農業中心でハンディクラフトを作っている。高校がないのでなんとか作りたい。隣の村長さんも同席。教育に注ぐ思いを語られた。
村人と一緒に餅つきをしました。
細長い丸太をくりぬいた中に蒸した餅米を入れ、杵で二人でつきます。日本の餅つきと違うのは、臼が長方形、杵が軽い、水をつけて手返しをしないので餅と杵がくっついて、持ち上げるのが大変。モン族の若手は決まっている。一方の日本側は、杵の軽さと、くっつく餅を引き離す力不足で、周りの子ども達の笑いをおおいに誘った。
もりあがった餅つきでした。
昼食を村長の家で頂きました。魚を揚げたもの、ご飯、タピオカと芋の入ったデザートのようなもの、バナナ、餅は蜂蜜をつけて食べるようでした。日本から持参した海苔としょうゆは、甘さとは反対の味覚なので、シビライ村の人もとまどった様子でした。
昼食後、女性達の刺繍をするところを見せてもらいました。時間をみつけては、膝に布を置き、色とりどりの刺繍糸を自分の感性でクロスステッチしてゆきます。それは刺繍するお母さんの袂で遊びます。そして針を持てる頃になると、端っこのほうの部分をさせてもらいます。やがて順次任されるのでしょう。民族衣装を自らつくる伝統的なこの刺繍は、難民時代にも作っていました。
同じ柄でいくつも作るという商業ベースは彼女らにはあいません。なぜならおしゃべりしながら、みんなと楽しく、そして創作の楽しさを味わいながら、「刺繍する事が楽しい!」と彼女らは語るからです。自らの思いを刺繍の糸に託して表現する、それは仕事と言うより生活の中の大切な創造時間で、生きる源なのでしょう。日本にきて一つ一つ違う柄を見る時、私たちはどれもこれも素晴らしく選ぶ楽しさと難しさを味わいます。
そんな思いの刺繍がされた生産品も市場にいけば、観光客に値切られ手元に届く報酬はその思いや技術に見合った物ではないでしょう。シビライ村はまだフェアトレードとしての組織化にはまだなっていませんが、村の人と難民キャンプ以来家族のように、またおかあさんと慕われている安井清子さんを通じて、SVAに届きます。これはフェアトレードの中では分類すれば提携型に属すでしょう。
フェアトレードのマークも何もありませんが、生産者も仲介する人も引き取り買う団体も互いに尊重し合う関係での取引です。形ではなく目に見えないつながりで生産品が作る人から使う人へと手渡されていきます。
そのお金は年間を通じてお米が取れないシビライ村の人にとっては大切な現金収入です。教育費に生活費になります。刺繍は女性のものだけではなく、村長をはじめ男性も手がけるそうです。
実際、下の刺繍は少年が刺繍しました。木から落ち、竹にささった所を助けられたそうですが、入退院があり、ただでさえ貧しい生活のなかでのかかる医療費への苦労は大変なものと想像します。週末に3枚ほど仕上げるという刺繍のステッチは素晴らしいものでした。それを製品化するコーディネーターがシビライ村から生まれるともっと収入が増え、臨時支出にも対応ができるようになると思います。
2007年に行ったメキシコのコーヒーなどの生産者のトセパン組合は、組合委員のための銀行をつくりました。営利目的ではないので、預ける時の利子は高くつけ、借りる時の利子は少ないそうです。
★11月6日 メキシコからトセパン組合の話をしてくださる人が、「森を育てるフェアトレード」の公開講座のため来名予定です。
シビライ村にも若者が世界のこのような事例を勉強し、村に持ち込んでくれたらいいなっと思います。情報の不足は発達を拒みます。出入りする人達が情報を提供し、相談にのってあげれるといいなと思います。
どちらにせよ、現金収入を得ることです。今回も生産品の改良点や新製品の提案なども直接生産者の人と話す事ができました。
今回のシビライ村での出来事の一つに、昼食後、小柄なおばあさん(と言っても多分私くらいの年齢の人)にモン語で「ワッジョ=こんにちわ」と声をかけたら、互いに手を取り、なんだか自然にハグした。東洋人にはないことだけれど、ハグしあいながら語り合う目は、今回この訪問では口に出来ない難民時代のこと、それを彼女は目で語っていたと思う。
私も前日の前もっての安井さんのレクチャーで20年近くの難民キャンプ時代のこと、帰還してからのこと、その時代を生きてきたことに思いをめぐらした時、涙が出てきた。彼女もそうだった。指で数える仕草もしていた。私にはわからないけれど、「たいへんだったね~」という思いでハグしていた。自分自身不思議な行動でした。彼女の手が私の涙を拭いてくれた。
そのあと刺繍する現場では、彼女が針を持って刺繍をしていた。白い布にしていたので誰かが聞いた。「なぜ白い布にするのですか?」と。答えは、死に装束ということでした。女性の平均寿命54歳というラオスでは40~50歳になればそのような準備も有るのかもしれない。私は平均年齢はとうに過ぎている。死に装束の衣装までは考えていないけれど、どうしたらこのまわりに物を片づけたらいいのか考えている。シンプルに暮らしたいと思う。
私にできることは?
SVAという団体を通じて、今回出会ったシビライ村の現金収入の道を造りたい。後継者は一杯いると村人の話。確かに!! 子どもらは一杯いる!
素晴らしい感性と技のモン族。それらを生かし世界に誇る伝統文化を発信、自らの歴史も語り、互いに平和に暮らす事ができるように出会ったところからつながってゆきたい。語って行きたい。