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野入日記・カフェ&民泊「風の庭」日記

野入日記~風の庭~2024年8月5日

「風の庭」の夕暮れ

今日は第44回スロー・シネマ・カフェ【勉強会】 7名参加 10時~

朝は8時過ぎに裏山で草刈り、30分ほどしてシャワーで汗を流してスロー・シネマ・カフェの準備。

第44回SCC勉強会

今回のテーマは、戦時中に沖縄で起きたことを知り、平和について考えました。国のために働くことなどの軍国教育や「生きて敵の捕虜になるのは恥だ」という日本軍の考えが住民にも浸透していたうえ、「捕虜になれば、男は戦車でひき殺され、女は辱めを受けて殺される」と米軍への恐怖心が植え付けられていた。こうしたことから「強制集団死」という言葉も使われます。一方、日本軍がいなかった島では集団自決は起きなかったということです。

【チビチリガマとシムクガマ、沖縄戦の二つのガマが教えてくれる国際人権と平和の重要性】

◆チビチリガマ

アメリカ軍の沖縄本島上陸の翌日1945年(昭和20)4月2日、鬼畜(きちく)と教えられたアメリカ兵の残虐な仕打ちを恐れて、肉親相互が殺しあうという凄惨(せいさん)な地獄絵図を現出したといわれる「集団自決」が行なわれた所です。
この洞窟への避難者約140人の内、無辜(むこ)の住民83人が非業(ひごう)の最期(さいご)を遂げたということです。

◆スムクガマ

アメリカ兵が銃を構えて洞窟入口に向かってくると、人々は恐怖の余りうろたえ、洞窟内は大混乱に陥りました。いよいよ殺されるのだと、洞窟の奥へ逃げ込もうとしますが、足の踏み場もありません。
その時、ハワイからの帰国者、比嘉平治(当時72歳)と比嘉平三(当時63歳)の2人が、「アメリカーガー、チュォクルサンドー(アメリカ人は人を殺さないよ)」と、騒ぐ避難者たちをなだめ説得して、ついに投降へと導き、1千人前後の避難民の命が助かったということです。

彼らは、英語を話せるだけでなく、米国の文化や法律にも詳しかったので、米軍と交渉し、ガマの中の人々に投降を促しました。

丸木夫妻の物語

地上戦を生き延びた沖縄の人びとの切実な「命どぅ宝(命こそ宝)」に共感共苦した、丸木夫妻の「人間といのち」への深い鎮魂と洞察の軌跡をたどる物語のことも知りました。
1982~87年、丸木夫妻は沖縄に通い続け、地上戦の「現場」に立ちながら沖縄戦を連作14部に描いた。
ふたりは、沖縄島や近隣諸島をめぐり、体験者の話に全身全霊を傾け、沖縄に関連する160冊以上の本を読み、研究者を訪ねたそうです。
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15時からはピザのソースづくりも含め準備をして

ピザ窯(耐熱煉瓦を組んだだけに簡単なもの)に火を入れた。

 

実は裏山から切った竹をしたに下ろし、枝を掃うと枝の山。それを消化するために昨日も1時間窯で竹の枝を燃やし、汗流しように湯沸かし、同時に一つの窯で大豆ゆで(納豆つくりのため)と梅ジャムづくりも同時進行。(昔の窯は大きかったので工夫して3カ所で煮炊きが出来る)

 

今日は、ピザ窯でも1時間枝を燃やし続け、ピザを焼きました。

 

ゆっころんの夏の幸せの時間は

朝と夕方に2回 1時間弱草取りしてシャワーで汗を流すこと。そのあとの爽快感がたまらない。洗濯は増えるけど、、

 

草取りは、庭にある畑、駐車場にあるこれから畑にするところ、裏山、川近くにある畑と4か所 順繰りにしている。刈ったあとははっきりわかるのでやりがいはあるけれど、すぐまた伸びる。でもシャワーができる時期はすぐになくなる。そんな野入だけれど、今年の夏はどうかな? 皆さん今年はア・ツ・イと言ってみえます。

 

でもそんなとき思う。パレスチナのガザ地区の人のこと。歯を磨いている時、寝る時、扇風機つける時、洗濯する時、トイレの時など、、、

お母さんに、足の裏に名前を書いて 消えないマジックで

私は番号やすうじではない という話も読みました。

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