フェアトレード・ショップ風“sのあしあと その3今年2020年1月からフェアトレード・ショップ風” あらたに 顔のみえる店~FAIR TRADE 風”s(ふ~ず) として再出発しました。新しい風のある店を、 ゆっころん=土井ゆきこは、
名古屋ではフェアトレードの産品チョコレートなど卸業もしながら
フェアトレード・ショップ風“sのあしあと その2 2016年6月1日正文館書店本店2Fに移転正文館書店本店(東片端交差点) 名古屋市東区東片端町49(東片端交差点角) 2F
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フェアトレード・ショップ風“sのあしあと その1
フェアトレード・ショップ風“s(ふ~ず)1996年5月30日
愛知県女性総合センター(ウィルあいち)1Fにて開業
① 2013年12月「月間みんぱく」へ寄稿
地域都世界がつながるフェアトレード
フェアトレード・ショップ風“s(ふ~ず)代表
名古屋をフェアトレード・タウンにしよう会代表
フェアトレード名古屋ネットワーク代表 (※初代代表 2013年1月~2015年1月)
土井ゆきこ
フェアトレード店開業
私は、普通の女の子だった。学力も体力も芸術系も普通、本を読むわけでもなく世界についても無頓着であった。高校を卒業して、損保会社に就職、広告会社に転職して寿退社。三人の男の子に恵まれた。末子が2歳の時にパートタイムで働き始めた。その後、女性起業セミナーを受講し、「生涯現役で人の役に立つことをしたい」という思いから1996年に愛知県女性総合センター1Fに中部地区で始めてのフェアトレード専門店をオープンした。子育て真最中の時に、『エビと日本人』や『バナナと日本人』を読み、私たちの暮らしが東南アジアの人達を犠牲にして成り立っていることを知ったことも大きい。店を経営しながら、私はいろんな人との出会いのなかで成長していった。またフェアトレードの生産者の現場を訪れることで視野を広げることもできた。9カ国ほど訪ねたそれらの土地とは今もこころでつながっている。
事業と並行して講演会など啓発活動を企画してきたが、10年たってもフェアトレードが広がっているとは思えなかった。じつはその頃、世界のフェアトレード・タウン運動を知って驚いたのだが、到底名古屋では無理だろうとあきらめて、それ以上考えもしなかった。
生産者を訪ねて
商品を作っている生産者を訪ねることは、見えなかった姿が見えてくるのでわくわくする。訪問前には想像の世界にすぎなかった生産者の姿が、訪問後はいつも隣にいるような錯覚すらあり、お客様にそのことを伝えるのはなんの苦もなく、現地で感じた気持ちは溢れるように出てくる。それもまた喜びである。モノを通じて人がつながっている実感がある。2007年にメキシコの首都から車で6時間離れた陸の孤島とよばれているプエブラ州のケツァーランを訪ねた時は、ちょうどコーヒー生産者のトセパン組合の30周年ということで様々な祭事があった。教会の広場ではボラドーレスという儀式を見た。教会より高いくらいの支柱の上部に巻きつけた縄に体を繋いだ4人の男たちが、鳥になったように支柱をくるくる周りながら舞い降りてくる。それを見た時は、人は天と地の間に有り、鳥に憧れているのだと思った。
旅先で訪ねる生産者は、主に先住の民だ。質素な暮らしで、素朴な音楽や踊りなどが観光化される前の状態で存続している。そして彼らの組合の理念では、地球環境への思いがもともと有るものとして意識されている。その同じ思いで生産者と先進国の消費者がつながるのがフェアトレードである。残念ながらその思いを抱く消費者はまだまだ少ないのが現状であるがゆえに、フェアトレードの理念を伝えるためにも、生産者を訪ね、製品の背景を消費者に伝えていきたい。
フェアトレードは運動だ
2008年の秋、東京で開催されたフェアトレード団体の展示会に参加した。その時に「みんなでフェアトレード・タウンになりたい!」って手をあげようという提案があり、それまで出来ないと思っていた私も、手を挙げる事なら出来ると、手を挙げた。すると、そこから蓋が開いた感じで、次々と情報が入り、翌年3月には「フェアトレード・タウンで町おこし」の企画に参加するために再度上京。名古屋でもフェアトレード・ラベル・ジャパン(FLJ)の中島佳織事務局長をお招きして勉強会を開催し、とうとう6月には「名古屋をフェアトレード・タウンにしよう会(なふたうん)」が発足した。フェアトレードは運動であると改めて感じた。
なふたうんの主な活動は、国際理解教育の参加型ワークショップを、学校(小・中・高・大)や生涯学習センターで開催することである。これまでに自主企画の3回連続講座「楽しく学ぶフェアトレード」「チョコレートの来た道」を含め、3年間で70回以上もおこなわれた。講演会やバザー出店も多数ある。毎年5月にはフェアトレード月間企画として、名古屋市・愛知県の国際交流協会と共催でフェアトレード企画を続けている。「なふたうん」の趣旨に賛同してくれたワンコインサポーターは、現在178名に上る。月刊で「なふたうん新聞」を発行し、毎月の推進会議には、大学生や会社員、主婦など、職業も年代もさまざまな人が集まっている。
2011年秋から1年かけて、市民・行政・議員・NPO/NGO・学校・企業なども参加して「名古屋にフェアトレードを広めるための会議」を隔月で開催した。その後他のフェアトレード団体にも呼びかけ、2013年1月「フェアトレード名古屋ネットワーク」がJICA(国際協力機構)中部にて発足した。このネットワークは、フェアトレード・タウンになるための6つの条件の1つ、推進組織の設立と支持層の拡大に該当する。次に取り組むのは議会承認である。
「私たちはお陰様で生きている。生かされている」と思い、地域や世界、そして自然と共に生きる思いを持ったなら私たちは平和に暮らせる。そしてフェアトレードは世界に視野を広げるきっかけの一つであり、各分野の人とつながる縁結びの役もある。2012年12月に施行された「消費者教育推進法」は、公正で持続可能な社会形成に消費者として積極的に参画することを目指している。まさにフェアトレードの推進がうたわれているともいえよう。この機に、名古屋をフェアトレード・タウンにし、フェアトレードをいっそう推進することを目標にしている。
②NPO法人 起業支援ネットのHPより
http://www.npo-kigyo.net/aile/aile_bkno/aile77.html
人と人とをつなぐフェアトレード~世界をHappyにする消費~
会報aile77号(2011年1月号)
土井幸子さん
風の交差点風’s(ふ~ず)
1948年生まれ、家族は夫と男三人の子(いずれも社会人で独立)。生涯現役で働くこと、社会に役立つことを望み女性起業セミナーを受講。ウィルあいちオープン時、ショップ公募に「共に生きる」をテーマに応募。1996年5月フェアトレード・ショップ風”s(ふ~ず)をオープン。同時に市民団体GAIAの会(がいあのかい)を立ち上げ、フェアトレードの啓蒙などのイベント・セミナー・映画・コンサートを企画。2009年6月「名古屋をフェアトレード・タウンにしよう会」を立ち上げた。
事業概要
風“s(ふ~ず) 名古屋市東区上竪杉町1 愛知県女性総合センター(ウィルあいち)1F 営業時間:10時~18時 休業日:休館日 TEL&FAX:052-962-5557 E-mail:huzu@huzu.jp URL:http://www.huzu.jp/ 名古屋をフェアトレード・タウンにしよう会 URL:http://www.nagoya-fairtrade.net/ |
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今後も以前尋ねた旅を紹介してゆきます。
ゆっころんの、いままで訪れた国ちょっと整理してみました。10ヶ国以上
1=1996年3月インド(ピープルツリー)
2=1997年12月 バングラデシュ(シャプラニール)
3=2001年12月 ペルー(第三世界ショップ)
4=2003年8月 ネパール(ネパリバザーロ)
5= ペルー(FTショップの人と二人で)
6=2007年 メキシコ・トセパン組合(ウィンドファーム)
7=2008年5月 ピースボートで世界一周(北周り)フェアトレードが特に関係なし
8=2010年 ラオス(SVA)
9=2012年2月 インドネシア(AWEP)
10=2012年4月 バングラデシュ(ピープルツリー)
11=2012年11月 ブータン(ナマケモノ倶楽部)
12=2013年9月 タンザニア・ルカニ村(京大 辻村英之)
13=2014年3月 ネパール(AWEP)
14=2014年7月 インドネシア・フローレス島(第三世界ショップ)
15=2015年11月 ピースボートで世界一周(南周り)マダガスカル・ナミビア・ウルグアイ(フェアトレード関係の国)
16=2017年3月 韓国のi-coopで土井ゆきこ講演・フェアトレード団体と交流
No.179 | 2012/8/25[NEW!!] |
風”s・風のたよりオンライン版 2012/8/25 No.179 風のたより179号
ピ-プルツリ-2012年秋冬号のカタログにバングラデシュのツアーに参加した感想文が写真 いりで紹介されました。
写真1(ピープルツリーカタログ) 写真2(ゆきこ記事) 178号のタナパラ村のスワロ-ズ訪問の報告の続きです。
■ スワロ-ズ代表だったライハン さんの後継者シャントラさんは30歳 2012年4月2日ツアー参加者6人が3つのグループに別れ、現地の言葉が話せる人と 組み、スワロ-ズに働く人の家に朝7時集合でインタビューにでかけた。
写真3 ワイヘイダさんへのインタビュー(左がシャントラさん) 私達のグループは、スワローズ代表のシャントラさんが通訳。彼は30歳。代表の ライハンさんが、昨年心筋梗塞でたおれたあとを引き継いでいる。 スワローズについては、ピープルツリーの生産者情報により青い制服を着た子ども たちの学校の様子の写真を知っているが、その子どもたちがスワローズの入り口で みんなで歌を歌い、歓迎してくれた。ワクワクする出会いの瞬間だった。スワロー ズの子ども達は、積極的に「 What’s Your name?」と聞いてきます。
動画リンク: http://youtu.be/lYxIrONOf3M
■ 広いスワローズの学校の運動場での歓迎のセレモニー オレンジや赤に金のブロックプリントのある舞踏用の衣装を着た女の子らと、校長 先生が手押しオルガンや大きなつつみのような太鼓を伴奏に歌を聞かせてくださっ た。 写真4 校長先生と子どもたち 舞踏の披露もあり、私達日本勢も「上を向いて歩こう」を歌いお返しをした。バン グラデシュではこの曲は知られていなかったみたい。でも16年前インドでも、2月 にインドネシアへ出かけた時も知られていた曲でしたが…
■ スワロ-ズの学校の校長先生、いいな……! 写真5 校長先生の体操指導 なぜって、翌朝、朝礼の時に学校へ行ったら、校長先生自ら体操を指導。私もな らって体操をしていたら、校長先生の後ろで並んで見ていた他のツア-参加の人達 も体操をし始めた。楽しい朝の時間でした。 校長先生は、スワロ-ズ滞在の2日目の夕方、ボートの旅にみんなと出かけた時も 一緒で、その時も太鼓と手押しオルガンを舟に持ち込み、しばし10数人の人達が バングラデシュの歌を4~5曲くらい歌った。 写真6 ボ-トの上での演奏 後で歌の内容を聞くと、川の歌あり、カボチャの歌あり、またイスラム教も、キリ スト教もキリ スト教も、ヒンズー教もみんな一緒に暮らそう…というような歌もあったようで す。 この舟には、スワローズの代表だったライハンさんも車椅子で同乗。ライハンさん は、どんな思いで川を見ているのかしらと思いました。 写真7 ワークショップ参加のライハンさん(右はサフィア・ミニーさん)
■ パキスタンから独立する時、タナパラ村の男達は全員殺された。 彼が来日した折に聞いた話では、タナパラ村の男たちは川の向こうに並べさせら れ、女子どもはこちらにいて助かったが、男達は全て殺された。ライハンさんは、 子どもだったので助かったということでした。夫を亡くしたタナパラ村の女性達 に、男性の仕事の機織りを仕事にするようにプロジェクトが始まり今にいたりま す。 このボートの旅でバングラデシュの人達が唱和する姿は素敵でした。こころがひと つで、みんなでこの村をよくして行こう! みんなで子ども達を育てて行こう、み んなでこの国バングラデシュをよくして行こう! そんな気持ちが伝わってきまし た。 今の日本人に5曲くらい歌詞を暗唱し、歌うことができるでしょうか?
■ スワローズでの、ゲストハウス 個室を頂きホテルとはまいりませんが、美味しい食事、食後のコーヒー(インスタ ント)なども用意され不自由は感じない2日間でした。水シャワーは、慣れないけれ ど陽が登るころには自然に温水になっています。ベッドには蚊帳もかけてあり、香 取線香も持参しましたが、虫や蚊に悩まされることはなく、朝夕は過ごしやすいで す。 次回は、今回の旅の一つの目的である、生産者さんたちの品質管理のワークショッ プの様子など報告します。
生産者を訪ねる旅 振り返り ネパールのNGO団体『マハグティ』2003/8/17 No.98 風のたより98号
2020年12月25日
2003/8/17 No.98 風のたより98号
■ ネパールのフェア・トレード生産者を訪ねて…
今回8月6日夜中関西空港出発~16日早朝帰国、10日間ネパールに滞在して、日本 のフェア・トレード団体『ネパリ・バザーロ』の生産者団体の人々に出会うことが 出来ました。 『ネパリ・バザーロ』は、1992年から母体となるNGOベルダレルネーヨ(ネパール の女性の自立と子どもの育成支援の会)のフェア・トレード部門として活動してい ます。風”sはその4年後1996年にオープンしました。
『ネパリ・バザーロ』のパンフレットは、始め手書きのものでした。段々に発展し て今はVol.8でA4サイズ51ページに成長、ネパール一国に絞り丁寧にフェア・ト レードの糸を紡いでいる団体です。今回の旅行でそのことを確かめることができま した。手・間・暇かけての製品、手・間・暇かけての商品開発と継続。小さな団体 を一つ一つ育てて行く、「ゆっくりでしかできない仕事」であるフェア・トレード の現実に触れることができました。
■ パンフレットの奥の世界が見えました!
以前から見慣れたパンフレットが、今回の旅行の後で見てみると奥行きと広がり、 整然としているとは言えない現場ではあるけれど、周りの緑ある風景、心のつなが り、出会いの嬉しさ、こんなにも幸せな気持ちになるとは思っていなかった。嬉し いのです。この人、私と会った人、この工場は私が見た現場。
一つ一つの商品につ いてお客様に語ることが出来る。そして仕事を待っている人につながって行く手応 えを感じることが出来る予感が嬉しい。 はじめにネパールでもっとも古いNGO団体『マハグティ』の事務所を訪ね、ス タッフの案内で「トゥルシ・メハール・アシュラム」に車で出かけた。若き日をマ ハトマ・ガンジーと共に過ごしたネパール人、トゥルシ・メハール氏が最低辺の女 性とその子ども立ちの避難所として開いた所です。
■ 訪問1日目 アイピローはここで作られていた…
『ネパリ・バザーロ』の人気アイテム! 「洋服を作ったあとなどの端切れで何か作 れないか?」ということで生まれたタマとポチと名付けられたアイピローは、中に 亜麻の実100%。だから沈静作用などの作用で目の上に置くと「らく~」になる し、ちょっと置いているだけで愛らしい。すぐ仲良しになりそうな縫いぐるみで す。
プレゼントにも大人気。プレゼントする機会毎に買いに来て下さるお客様も老 若男女問いません。 この人気商品が作られているところに行く! と聞いてわくわくしました。 赤煉瓦造りの中庭を囲み建てられた2階建ての建物の各部屋では、ミシンで縫った り、織ったり、型染めをしていたりしていました。 窓から見える景色は、緑・緑・緑の部屋のなかでミシン3台、奥の裁断机での作業 の他、首のところなどの手での縫いつけ作業もしていました。「顔の表情のところ が難しい」と言っていました。
■ 常に頭を回転させ…よりよい商品作りと商品開発
『ネパリ・バザーロ』の担当者は品物を手に、注意事項など伝達していました。 現地の生産者&フェア・トレード団体~日本のフェア・トレード団体~風”sなどの 日本の小売店へと手渡された商品は、時にお客さまよりクレームを頂きます。
それ を日本のフェア・トレード団体通じて現地の生産者に伝え、よりよい商品を育てて ゆきます。『ネパリ・バザーロ』代表土屋春代さんは、年に4~5回現地を訪れて は、しっかりコミュニケーションを取りながら商品開発という仕事もこなします。
■ 1927年に生まれた『マハグティ』はガンジーの思想のもと
… 創設者トゥルシ・メハール氏自身貧しい生活をしていた人で、少年時代から貧しい 人たちへの優しい目と、社会の悪に反対する心を持っていた人だそうです。
以下「マハグティ」の紹介は「VERDA Vol.6」より 1972年に、夫に捨てられ生活手段を無くした女性や寡婦など、最底辺の 女性と子ども立ちの避難所として「トゥルシ・メハール・アシュラム」 を開きました。
そこでは技術を身につけ仕事を持つことが他者の支配か ら逃れ、自立する道であるというガンジーの思想のもと、機械や糸紡ぎ の技術指導が行われており、その販路開拓と「アシュラム」の資金づく りを目指して、1984年、マーケティングのNGO「マハグティ」を誕生さ せました。
「マハグティ」は市場を見つけることができず厳しい生活を強いられて いた遠隔地の生産者の調査も進め、地方の伝統技術を応用しダカ織り、 アローなどの製品をいち早く開発、商品化した功績は多大なものがあり ます。「マハグティ」では、アシュラムや他の訓練所で技術を習得した 女性たち30人が織り、染め、縫製などに分かれてきびきびと楽しそうに 仕事をしています。
■ 食堂・寮・学校・医療施設など…
中庭を囲んで建てられた仕事場の赤レンガの2階建て建物の他に、食堂があり、医 療の建物、寮、小さな子たちの学校など設備が整っています。
とはいえ私自身から 見たら、ベッドしかない自分の領域、「つらいな~」という実感ですが、現実は住 むところもままならぬ人にとってこの「アシュラム」は、衣食住が保証され、2年 間の職業訓練を受け、仕事の販路先に「マハグティ」があるという心強さマハト マ・ガンジーさんの精神が受け継がれたこの「アシュラム」が存在することは素晴 らしい。販路を担当している「マハグティ」から日本でもいくつかフェア・トレー ド団体が仕入れて販売しています。
■ 「マハグティ」に向かうタクシーでは歌う運転手
なんと陽気に歌うのです。はじめはタクシーブギとか歌って、通訳して下さった 『ネパリ・バザーロ』男性スタッフが聞いたところちょっと自分で作って歌ってい る所もありとか。 次なる曲はネパールでは大変ポピュラーな曲「レッソン・ピリリー」とかいう曲で 絹のすれる音という意味だそうです。
そのスタッフも知っていて以前訪れたところ で子どもたちが歌ってくれたそうなので、彼も運転手と一緒に歌っていた。 私は いい曲だな~、聞いたような~~とず~~っと気になっていたら、翌日ふと思い出 した! そうだ! 中根麻衣さんの「愛はどこに」と同じ曲だと思い出した。
今年の3月に麻衣さんのとっても素敵なコンサートを聴き、そのことは風のたより 87号でお伝えしましたね。このことはすっきり、そして嬉しくてしかたない出来 事でした。 今回で同行したGAIAの会のメンバーさちこさん(実はネパールの人にネパールの名 前を付けてもらいました。プルマヤさんと)も麻衣さんのコンサートは一緒だった ので、思い出した後は互いに大喜び、彼女はネパールでCDも買いました!
2019年2月4日~7日AWEP(アジア女性自立プロジェクト)のスタディツアー「タイのチェンライ、バーン・トーファン(夢を織る家)を訪ねる旅2019」
2019年2月24日
スタディツアーとは、主に途上国でNGOが活動する現場を視察したり、ボランティア活動などを行う旅行のことで、 体験学習や現地の人々との相互理解を目的としています。 一般のツアーとの最も大きな違いは旅行の目的です。 一般のツアーは観光が主な目的ですが、スタディツアーは旅を通して「学ぶ」ことが目的です。
フェアトレードの団体は、スタディツアーを企画することで、生産者と消費者を結びつけお互いが交流することを促進、参加者は観光旅行では味わえない楽しさ、良さがあります。また生産者にとってもいい刺激になります。
店の品々の奥には生産者さん達の顔があります。その背景を知る事、伝える事ができるのが風”sの店のエネルギーの元です。
2019年2月 AWEP(アジア女性自立プロジェクト)*の「タイ・チェンライ・バーン・トーファン(夢を織る家)を訪ねる旅2019」のスタディツアーに2月4日~7日まで参加。AWEPのスタディツアー参加は3回目.
*アジア女性のエンパワメントに取り組む団体で、 エンパワメントとは、能力をつけていくこと、自己決定の選択肢を持つこと、そのための環境を獲得していくことを目的とし、海外事業では、フェアトレード等を通じた女性の自立を促進する活動、国内事業では日本に住む外国人女性の生活相談や情報提供を通じた生活支援他。
1日目=2月4日(月) 午前 チェンライ空港集合(現地集合)
チェンカムへ。BTF作業所でミーティング
2日目=2月5日(火) BTF作業所でミーティング
タイ山岳少数民族ヤオ族の村を訪問し交流(プレゼント交換)
BTF作業所メンバーと夕食(タイ・スキでした~)&交流会
3日目=2月6日(水)メースーワイへ。土の家(日干煉瓦で作った家)にチェックイン
染色家ノイさん訪問・村の機織りグループ 訪問。温泉へ。
4日目=2月7日(木) アカ族の村を訪問、コーヒー工場見学(現地解散)
今回尋ねたBTFで手にとった、手織り・草木染め・ヤオ族の手刺繍、見れば見るほどに欲しくなります。そこに関わった人たちの思いや、その製品に関わった時の経過などが伝わってくるのだと思います。
タイは経済成長が順調なようで、道路も整備されていて、今回の行程では貧しい~という家は見受けられず、車も殆ど日本車が走っていました。
とはいっても首都バンコクには首都バンコクにはスラムが約2,000ヶ所、200万人が暮らしています。
■バーン・トーファン(Baan Tho Fan)
バーン・トーファンは、家族が出稼ぎで離ればなれになることを防ぎ、村での農業を基盤とした暮らしを守るため、農閑期に伝統的刺繍を活かした製品を生産しています。
刺繍はタイ山岳民族の一つヤオ族のクロスステッチによる刺繍で、ヤオ族も出稼ぎにでなくても暮らしていけるよう、また刺繍の伝統の灯りが消えてしまわないように仕事づくりが必要で、バーン・トーファンの女性達と連携をとって手織り・草木染め・手刺繍の雑貨を作っています。
山岳民族のヤオ族は、出稼ぎにバンコクへ行っても差別をうけています。1日315バーツのところヤオ族出身は250バーツしかもらえない。子どもと離れて暮らさなくてもいいように刺繍の仕事などがもっとあればいいけれど、その刺繍も受け継がれていかない現状もある。世界中で織り・染め・刺繍など伝統・技術が失われて行く様子は寂しい。手間暇かける心の余裕、暮らしの余裕が失われていくということですね。
2月5日は旧正月でヤオ族の村では、太鼓や笛をならして家々をまわり、お札のようなものを各自が持ち、前に後ろに立ったり座ったりお辞儀をして、最後はそのお札を燃やしました。
赤く色つけたゆで卵を紐で下げ首にかけてもらいました。行くところ出会う人から頂いたので8個くらい首から玉子がぶらさがりました。
人身売買の被害をなくす為の村での仕事作りも経済発展とともに、BTFでもメンバーが減り、製品の刺繍を担うヤオ族も刺繍を続ける人が減少しているという。人身売買の被害が減少したのであれば目的は達成したのであるが、なにか手仕事の伝統が失われていくという寂しい現状を見ることになりました。
とはいえ、山から下りてきた山岳民族の生活は今も出稼ぎをしなければ暮らしていけない状況もあり、出稼ぎ先では給与など差別も受け苦しい状態であることは変わりない。
アカ族の人の話も伺いました。37年前にその方の祖父が移住。家族のために働いて外との交流はなく自給自足だったが、タイ社会の経済に巻き込まれ養っていくためには支出が増え、売るための作物をつくり始めた。
自給自足の生活は、味も素朴だったが、味の素がはいり、野菜や米も買ってくる、それらは農薬の心配もあり、村の健康状態はよくない。
山の木を切った耕作地に農薬をまくので雨期には流れてきて、奇形の魚も現れ、今では水も買っているという。
旅の途中で見晴らしいのいいところで休憩したが、確かに木が切られ耕作地になっている山々の風景が広がっていた。
一方そのあと訪れた「ドイチャンコーヒー」はフェアトレードを超えたフェアトレードを唱える、カナダの事業家たちによるコーヒー工場があった。
シェイド・グロウンといって木陰で作るコーヒー、つまり森の中で作られる。ドイチャンコーヒーの農家は1000本以上の植林をしているという。フェアトレードの認証マークの他7つのマークが工場の壁に大きく表示されていた。
アカ族やカレン族の人々がこの会社の理念『貧困のサイクルをなくす・教育と健康管理を促進する・文化的アイデンティティと誇りを奨励する・平等を保障する・経済的持続可能性を達成する他』のもと今の時代にあった暮らし方が始まっている、フェアトレードの理念がタイ北部の地で始まっていることを知り嬉しかった。
■「Beyond Fair Trade」
アヘン生産への依存から脱却し、子供たちのために安定した未来を築くためにカナダ人の著名なビジネスマンJohn Darchが起業家Wicha Promyongと出会った2006年彼らの会議の結果、フェアトレードを超えた平等なパートナーシップのビジネスベンチャー、Doi Chaang Coffee Companyが設立されました。フェアトレードを超えてこのユニークなパートナーシップの成長、その成功と課題、そしてその背後にある人々の物語が「Beyond Fair Trade」という書籍に書いてあるそうです。現在日本語訳はなし。
名古屋にもどって、思うことは、まず手仕事の大切さを知ってもらうためのワークショップ開催(ヤオ族の刺繍にチャレンジ)。私たちが失い、また大切な先住の民たちの文化が失われつつある手仕事、立ち止まって考える機会にしたいと思っています。
【3月企画のお知らせ】
■3月23日(土)AM10時半~タイ山岳民族ヤオ族の刺繍にTRYワークショップ開催
会費:800円(コースターつくります)
■3月24日(日)AM10時半~タイスタディツアー報告会(無料)
同時開催:3月21日~27日まで「アジアの布展&タイ山岳民族の手仕事展示と販売」
BTFの草木染め・手織り・ヤオ族の手刺繍のポーチ・バッグなど販売します。
一年がかりのヤオ族刺繍の作品
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ゆっころんの、いままで訪れた国ちょっと整理してみました。10ヶ国以上
1=1996年3月インド(ピープルツリー)
2=1997年12月 バングラデシュ(シャプラニール)
3=2001年12月 ペルー(第三世界ショップ)
4=2003年8月 ネパール(ネパリバザーロ)
5= ペルー(FTショップの人と二人で)
6=2007年 メキシコ・トセパン組合(ウィンドファーム)
7=2008年5月 ピースボートで世界一周(北周り)フェアトレードが特に関係なし
8=2010年 ラオス(SVA)
9=2012年2月 インドネシア(AWEP)
10=2012年4月 バングラデシュ(ピープルツリー)
11=2012年11月 ブータン(ナマケモノ倶楽部)
12=2013年9月 タンザニア・ルカニ村(京大 辻村英之)
13=2014年3月 ネパール(AWEP)
14=2014年7月 インドネシア・フローレス島(第三世界ショップ)
15=2015年11月 ピースボートで世界一周(南周り)マダガスカル・ナミビア・ウルグアイ(フェアトレード関係の国)
16=2017年3月 韓国のi-coopで土井ゆきこ講演・フェアトレード団体と交流
17=2019年2月 AWEP(アジア女性自立プロジェクト)*の「タイ・チェンライ・バーン・トーファン(夢を織る家)を訪ねる旅2019」のスタディツアーに2月4日~7日まで参加。AWEPのスタディツアー参加は3回目。
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■フェアトレード・ショップ風”s 正文館店(ふ~ず しょうぶんかんてん)
〒461-0015 名古屋市東区東片端町49 正文館書店本店2F
052-932-7373 T&F(月休み、12~18時営業)
HP : http://huzu.jp/
■名古屋をフェアトレード・タウンにしよう会(なふたうん)
HP: http://www.nagoya-fairtrade.net/
090-8566-2638 huzu■huzu.jp 【■は@) 土井ゆきこ
フェアトレード・ショップ風”s(ふ~ず)正文館店 土井ゆきこ
世界一貧しい大統領、南米のウルグアイのホセ・ムヒカさん
2015年6月8日
4月9日の中日新聞の「中日春秋」に載っていた、
世界一貧しい大統領の愛車をアラブの富豪から驚くべき値で譲ってほしいとの申し出があったそうだ。
南米ウルグアイの大統領のホセ・ムヒカ(79)さんは、公邸には住まず、報酬のほとんどを福祉のために寄付し、郊外の質素な家で妻と2人暮らし。
2012年にムヒカさんが国連の「持続可能な開発会議」で行った演説が、その人生哲学を如実に示している。
「貧乏とは、少ししか持っていないことではなく、かぎりなく多くを必要とし、もっともっとほしがることである」 こんないにしえの賢人の言葉を引きつつ、彼は訴えた。
「水不足や環境の悪化が、いまある危機の原因ではないのです。ほんとうの原因は、わたしたちがめざめしてきた幸せの中身にあるのです。見直さなくてはならないのは、わたしたち自身の生き方なのです。」 (『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』汐文社)
ムヒカさんは結局、「車を買う時に、お金を出し合ってくれた友人たちを 裏切りたくないから」と愛車を売らなかった。いきている限り、傍らに置いておくそうだ。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::以上一部紹介
幸せの中身にあるのです。見直さなくてはならないのは、わたしたち自身の生き方でそれを見つめるためのきっかけ作りがフェアトレードと私は考えています。
今年の1月10日にモンテビデオの首都ウルグアイを訪ねているので、世界一貧しい大統領の話を聞いたことを思いだしました。 訪問先はNGO[セプローディ」、貧しい女性達を職業訓練などをして自立をサポートしている団体です。
マラカスにするひょうたんにペンティングをするワークショップをしたり、「セプローディ」の事務所での本場タンゴのダンスを見せてもらったりして交流してきました。
尋ねたのは1月だったので、市民はビーチへ夏休みで行っているということでした。
「2月のカーニバルは世界一長いことで有名。 人口の12%は貧しい国。政権は左翼が続いていて、世界のなかでも民主的なことで知られている。 都心部では貧困はみられない。300万人はモンテビデオに暮らしている。先住民のいない国。スペインやイタリアからの移民が多い。」ということでした。
インドネシアのフローレス島に行き、カカオの生産者さんたちと交流。8月2日
2015年6月8日
テオブロマ・カカオ。ちょこれーとの原料カカオの学名だ。テオブロマとは、「神々の食べ物」の意。……….そんなチョコは買って本当に神聖な食べ物だった。原産地の中南米で栄えた文明では、豊作を祈るため、神に捕虜を生け贄として捧げれば、その心臓がカカオの実になると信じられていた。
カカオは通貨の役割も果たし、豆100個が奴隷一人に値した。あまりに貴重名ため、収穫にあたる農民ですら手をだせなかったそうだ。……2月14日中日春秋より
インドネシアは、コートジボアール・ガーナに次ぐ世界第3位のカカオの生産地。
今回は、第3世界ショップの現地集合のツアーに参加、カカオの生産者さんたちと交流してきました。
::::::::::::::::::::::::::::::: 報告書 :::::::::::::::::::::::::::::::
カカオ生産とイカット織りのフローレス島
名古屋 フェアトレード・ショップ風“s 土井ゆきこ
7月31日~8月6日まで、インドネシアのフローレス島を尋ねました。
カカオの生産者さんに会いたかった。
カカオの木に実がなるのを実際に見たかった。
カカオの生産の過程を見たかった。
イカット織りの現場を見たかった。
そして、第3世界ショップの国境を越えて共に地域づくりに参加するフェアトレードに興味を持ち参加しました。
深夜着や現地集合の不安があり、友人を誘っての参加。名古屋の中部国際空港へ着いた時はほっとしました。本当に友達と一緒でこころ強かったです。フローレス島に着くまでにも、帰途の広州乗り換えの時も、飛行機が定時に飛ばず、出発するまでの待ち時間がそれぞれに4時間前後あり、何が起きたのかわからないような状態で、ただ待つだけのことが2度ありました。
8月2日のフローレス島のカカオの生産者さんたちとの交流では、イカット織りのスカートを身にまとった女性達が出迎えてくださり、その姿にわくわくしました。頭にバンダナのようなものを巻いた男性が、ココナッツの実に水を入れ、その水を葉っぱで訪問者に振りかける伝統的な儀式による出迎えも受けました。
出迎えてくださったのはエドゥ(男性)さんのグループと女性団体マザース・ラヴの 30人、そしてお揃いの服(制服かしら?)を来た子どもたちの歌声。とても素晴らしい声でした。環境がいいと、声もよくなるのかしらと思うほどでした。
地区の代表の人の挨拶に続き、エドゥさんによる、「カカオの樹の学名はギリシャ語で“神の贈り物”という意味を持ち、 1688年にマダガスカルのファーザ・ボレンの手によりこの地に着いた。」という説明に始まり、最近の環境の変化を聞いたところ、「環境の変化で害虫の被害も多い。温度は30度が上限だったが、37度までいき、冬は雪が降った。気温の変化による健康被害もあった。」というお話を聞きました。世界各地で地球環境の変化があるのだと思いました。
交流タイムでは、カカオを使ったサーターアンダーギー(揚げ菓子)を一緒につくり、その材料を併せた小麦粉を寝かす時間を、「踊りましょう!」と呼びかけ、みなさんとダンスに興じました。言葉は通じなくても、踊れば笑顔がはじけ、心も通じます。手をつないで輪になって踊った、その体験はず~っと心に生き続きます。
女性達のヘアースタイルも型があり、アップに結い上げドーナッツのような毛束が乗っているスタイルです。私も民族衣装を着せてもらい、両手に腕輪をいっぱいして、ヘアースタイルもアップに結いあげてもらう素敵な体験もしました。
寝かせた小麦粉を丸めて揚げ、美味しいカカオのサーターアンダーギーを頂いたあとは、家の周りにあるカカオの木をみて、これもわくわく! 小さい白い花もみつけ、ニヤッ。「来た。やっと来た。」という感じでカメラに納めました。1日だけの交流だったので、カカオの実を採集したり、発酵するところなど、カカオの実の乾燥までの手順を見ることはできませんでしたが、カカオの木の中に入り込んだ体験は貴重でした。
もう一日、カカオの実の採集や発酵や乾燥などの流れがわかる体験や、カカオ屋台での販売などの現場も見ることができたらいいなと思いました。
フローレス島滞在3日目の朝訪問した市場は、氷などなくても新鮮なカツオやマグロがならび、活気あふれる地元の様子もみることができました。
滞在したホテルでは毎朝、日の出前から海岸に行き、消えゆく星、明け行く空、登る太陽を楽しみました。
4日目の小学校訪問では、日本からのお習字の授業も見たかったのですが、折り鶴をみんなに教えながら各教室を回り、熱烈な歓迎を受けました。最後のサイン攻めは楽しい思い出です。子どもたちも「日本」を意識してくれることでしょう。人と人の交流の良さですね。
こんな時間を作って下さった奥谷京子さん、ヤコブさんありがとうございました。スージーさんはじめ現地の人々、参加者の皆さまにもお世話になりました!
アフリカ タンザニア キリマンジャロ麓のルカニ村へ行ってきました。9月12~22日
2013年9月21日 Emirates機中にて
2013年9月22日14時15分、やっとここまで戻ってきたという感じ。あと3時間。お陰様で無事アフリカの地、タンザニア、首都ダルエスサラームから車で、12時間のキリマンジャロ麓の村を尋ねることが出来ました。
今回は、首都でフェアトレードの店に行くことも出来ました。マサラ族のビーズ製品がかわいいです。
コーヒー生産地のルカニ村での報告は順次ブログと一緒にお知らせする予定です。
今回のツアーは待ち時間含め、往復で4~5日間かかるようなはるかな地への旅でしたが、ルカニ村滞在中の4日間は、スローな時間でした。
スワヒリ語も少し覚え村人と挨拶もでき、キリマンジャロの頂も、はじめの2日間、夕刻にはクッキリ見ることができました。4日いても見ることが出来ない人もいたようです。
ルカニ村最後の朝は、6時集合でキリマンジャロの見える小学校の芝生広場に行き、キリマンジャロコーヒーを飲もうという企画を今回の参加者(学生6名含む8名)がしました。広場に着いた時は、薄っすら稜線は見えましたが、あっという間に霧の中。それでも熱いポットのお湯でキリマンジャロコーヒーをいれてみんなで飲みました。村人はコーヒーを飲む習慣はないようです。
1杯のコーヒーがいかに手間や時間をかけて届けられるかを実感して来ました。美味しいコーヒーを飲めるように、またフェアトレードのコーヒーにより、生産者の人達が安心して暮らせ、地球環境も守ること出来ることを伝えて行きたい。
古くて新しい1杯のコーヒーの物語を伝えて行きたい。 アサンテサーナ!
ブ-タン東部GNHツア-2012・冬 11月18日~26日参加
辻信一、ペマ・ギャルポと訪ねるエコ・スピリチュアルツア-に参加してきました。
11月26日、ブータンから戻りました。
今回の旅行は、南米エクアドルの先住民族に伝わる「私のできること」の話を日本に紹介した辻信一さんのツアーです。
東ブータンのチモン村を訪ねるこの旅は、タイからインドへ入り、インドから車で国境を超えブータンに入りました。おそらくこのルートでブータンに入った旅人は、しかもチモン村に行くツア-団体の旅人は初めてです。
チモン村は、今回のツアーの案内人ペマ・ギャルポさんの生まれ故郷で、山々に囲まれた盆地のような所です。
国境近くで、一晩泊まり、翌日バスに一行14人は昼食後、ペマ・ガッツェル県へ、車で5時間。国境を超えて遥か向こうに見える山並みに向かって走り、山に入りドンドンドンドンドンドンといくつも山の中を走った。初めは太陽が暑かった。だんだん日傾き、山の端に太陽が沈むとくっきりと稜線がオレンジ色に染まった。
村人達が10数人道端でゴザをひいて待っていた。お供えなどもあり、コップを渡され、トウモロコシのお酒を注がれ、紅白の茹卵を差し出されるおもてなしを受けました。
この村人たちは、チモン村を訪ねる私たちの事を聞いて歓迎してくれたのです。
この歓迎の前の30分くらいは、道が木や石でふさがっていてブルトーザーが取り除くのを待っていて、出発したら村人達が待っていた。同じように 待っていてくれたのです。いつ来るのかわからない
ような私たちを待っていてくれたのです。
しばらく車で走ると、やっとチモン村の神社までたどり着きました。また村人達の歓迎を受けました。同じようにお酒と卵とミカンとバナナで。
さて、その神社の下に見えるのがチモン村。荷物は村人に運んでもらいながら30分ほど下って行くと、また30人近くの人がでむかえてくれました。ペマのお兄さんも先頭にいました。ブータンの民族衣装を着た人たちです。ここでもゴザをひいて、お供えや花が飾ってあり、またお酒や、卵、ミカン、バナナなど振る舞われました。
ここが私たちの行く手のチモンの人々と思ったら、また途中の村人達で、さらに歩いて目的の村人に着きました。当然歓迎があります。お酒と卵とミカンとバナナとピ-ナッツ。
旅人を迎えると御利益があるという話も聞きましたが、村人総出での歓迎、準備からいつ来るとも知れぬ私達旅人を待ってまってくれたのです。
こんな感じで、出発から3日目の夕方に電気のない山里の村チモン村にたどり着き、2日間泊めて頂きました。
生活の原点を見ました。人々のつながりの原点を見たように思います。
また、今回の旅の大きな目的は、チモン村でオ-ガニックコットンの栽培を復活して、フェアートレードで現金収入をえることができないかというプロジェクトの始まりでもありました。
道ができ、私達も訪ねることができました。もうじき電気も来ます。村は市場経済に飲み込まれるでしょう。
自給自足で暮らしてきた村に、大きな波がやってきます。若者達が町に出て、過疎化するのが見えています。
その前に文化を、村の生活が存続するため、文化継承のために必要な現金収入が得られないかと考え、辻さんが今年3月オ-ガニック綿花栽培の提案をしたことから始まったプロジェクトです。
小さく、顔の見える関係でこれから進んでいくこのプロジェクトの始まりに出会えました。貴重な機会を得ることが出来ました。
また順次報告します。
AWEP スタディ-ツア-報告書より
2月21日~29日まで
フェアトレード生産者を訪ねて―糸紡ぎとバティック体験の旅AWEPのスタディツア-に参加してきました。
バティック(Batikジャワ語)は、インドネシア・マレーシアのろうけつ染め布地の特産品。特にジャワ島のものが有名なため、「ジャワ更紗」と呼ばれることもあります。インドネシアのバティックは、ユネスコの世界無形文化遺産に認定されたそうです。
そのろうけつ染めの現場を見ることができました。インドネシアのデンパサール空港から1時間15分、ジョグジャカルタへ、さらに車で6時間くらいのところにある中部ジャワ北のパカロガン、ウマ-ルさんの工房KPTBのお宅でホ-ムステイして、農村でのバティック製作や糸つむぎなどの体験をしました。
溶かした蝋を細い管を通して模様を描いていきます。ぼとっと蝋がたれてしまったりして思うようには描けません。
白い部分を出すために、模様以外全体を蝋で塗り尽くす作業もありました。先ほどの繊細な模様を描く手前の技術の人はそのような作業をするとのこと。
いずれも、家の中で行われ、暑い気候の中で、蝋を溶かす熱い火もとの作業、また女性の中にはムスリムの特徴でもあるショールを頭からかぶり作業をしている女性もいました。
伝統的な手法が、プリントによる機械織りに押され、本物がすたれていく現実を前にして考えさせられる手仕事を見ました。
今回、3泊させてもらったウマ-ルさんは、アピクリを立ち上げたメンバーの一人です。いま息子さんと娘さんが手伝っています。息子さんの ワハブさんは、草木染めに挑戦。草木染めは手間がかかりますが、ろうけつ染めにおいては、さらに手間がかかります。蝋なので、煮出した中で染めることが出来ないからです。かなりの手間をかけたシル
クの藍のろうけつ染めを見させてもらいましたが、伝統的な柄とあいまって素敵なショールでした。もうじき届きます!
手仕事を伝え、村の女性達の仕事を絶やさないように、スタディツア-の体験をみなさんに伝えて行きたいと思います。
今回の訪問予定のアピクリというフェアトレードの団体を尋ねることも大変楽しみでした。バリ島にも寄るということで魅力を感じていたスタディーツアーでした。代表のもりきさんとは、東京で、パネラーの一人として参加した時にご一緒したい、名古屋へみえたおりの講演にも参加しお会いしていました。今回の10日ほど一緒に行動し、交流させて頂いたことは、これからのAWEPといいとつながりができたと感謝しています。小売店の立場でAWEPさんと一緒にフェアトレードを広めて行きたいと思っています。
今回は、まとめ報告でしたが、順次日を追っての報告予定です。
名古屋 フェアトレード・ショップ 風“s 土井ゆきこ
I LOVE CRAFTTOUR バングラデシュへの旅
2012年3月30日~4月6日まで、ピ-プルツリ-のスタディツア-に参加してきました。
今回のツアーの感想 2012年4月4日
日本の店で売っているフェアトレード産品がここで作られていた。
その現場で働く人々に出会う。
毎日毎日糸を紡ぐ。毎日毎日染めをする。毎日毎日機を織る。
人の営みの生活工程を沢山省いて来た先進国は、その時間をかけた生活をとりもださなければならいと思う。それが環境を守り、人の暮らしを、誰かの暮らしを犠牲にしない生き方につながる。
今回、ツアーに参加して20年を経たPT の歩みを見ること、そしてこれから歩んで行こうとする先を見ることができました。
バングラデシュの首都ダッカから電車で6時間、車が近づいて聞こえるスワローズの学校の子ども達の声。2階建てのクラフトセンターで働く240人の女性達。18年前のおつきあいから比べて8倍にも広がった建物に代表のサフィアミニーさんは、感慨深げでした。
とはいえ、今回の旅行の主な課題は、いかに製品不良をなくして技術を向上させるかということ。
イギリスのスタッフも、年2ヶ月はここに滞在をして指導をしています。バングラデシュにある他の団体の代表なども集まり、何が原因で製品不良がうまれるのか考えようと呼びかけます。
このように尚も成長をめざす、スワローズがサフィアさんの要望にこたえ、より困っている人たちの手助け側になろうと動いているプロジェクトがあることに、こころを動かされました。
織りの仕事を近くの村に回したり、土地を所有しない人々の政府支援手刺繍プロジェクト(グッチャラム)の刺繍の手ほどきをしている。
自分たちに差し伸べられた手を、他の人に手を差しのべる人達が、フェアトレードの運動として連載している現場をみることができました。
何度も停電するような生活のなかで、みんなで暮らしがなりたつように手をつなぐ姿をみることができました。
国を越えた人のつながりの輪の中に入った今回のツアー、歌や踊りや花束や花びらなどの歓迎、贅沢な暮らしをしている私達のために、きるだけ不自由な思いをさせまいと、いろいろな面で準備をしてくださった、ゲストハウスでの受け入れ先のフェアトレードの団体のみなさまの心が本当に嬉しかった。
I LOVE CRAFTTOUR 手仕事は命の仕事!
報告は順次します。土井ゆきこ
2010年7月 ラオス・タイへ SVAクラフト25周年記念スタディツアー参加
“House of Handicraft”の代表、ワニダさんの物語
SVAクラフトエイドの企画 ラオス・タイにクラフト生産者を訪ねる旅に行ってきました。
今日は旅行の5日目にタイのノンカイにある”House of Handicraft”を訪ねた時の代表、ワニダさんの物語を紹介します。
ワニダさんは78歳
祖父をフランス人にもち、母はラオ・タイ人 父はタイ人
ラオス国境に近いノンカイ県に生まれる。
(私の掛けているショールはバーシーの儀式の時に村人からかけて頂いたショールです)
60年間クラフトの仕事をしてきた人。SVAでは人気のお魚ポシェット、元々人形作家のワニダさんの考案の「ウォーリードール」などがハウス オブ ハンディクラフトでは作られています。
仕事を始めたのはラオス。
30年間3000人の人をまとめてきた。お客は日本人だったそうです。ラオスに政変があり、独身女性でそんなに手腕のある人は……..、これだけの仕事が出来る人は….と言うことで投獄された。フランス・ラオス・タイと国籍をめぐって翻弄された。顔立ちは西洋人なので、「フレンチ」とよばれている。
タイの王や女王、首相からの出獄願いが届き3年半後タイへ。財産は没収されていたので着の身、着のままだった。
1980年タイの首都バンコクでクラフト再開。今回も日本の客によって何とか軌道に乗った。が、1997年タイの経済危機で大打撃を受け、撤退せざるを得なかった。そして生まれ故郷のノンカイへ来た。
ハウス オブ ハンディクラフトは8つの村で、40人くらいの人が仕事を得ている。材料は買って渡している。
問題は、いい仕事があるよと言われればすぐ、その誘いに乗って行ってしまうので、生産者が続かない。新人には2~3日教えて、簡単なところを分業でやってもらう方式をとっている。他の職への誘惑が多く定着しないこと。
その後、生産者さんをまとめている代表の女性達と、実際の生産品の改良点などを話しあいました。ホテルなどの仕事と掛け持ちの人もいて、じっくり専業でできるくらいの仕事量と賃金が、今ある問題を解決していくのだと思います。素晴らしい生産品でも、粗雑な部分があれば売れなくなる。そこはしっかりと伝えてきました。直接話し合うことで、今後の生産品の向上が楽しみです。
ツアー5日目 7月20日 タイを訪ねる
SVAクラフトエイドの企画ラオス・タイにクラフト生産者を訪ねる旅に行ってきました。
今日は旅行の5日目、ラオスのシティ・イン・ヴィエンチャンに3泊昨晩友好橋を渡りタイへ入国。ノンカイ県庁訪問、県知事表敬訪問。現地のフェアトレードの団体House 0f Handicraftsのワニダさんのアレンジで、行政とのつながりをもっと持ちたいということで
ノーンカイ県知事の表敬訪問。実際は、副知事さん(男性)と一村一品運動のまとめ役のような女性と二人が対応されました。
ひとつひとつのクラフトを、一村一品運動として盛り上げ、生産者を支えて行きたい、行政にも、活動をもっと理解していただきたい、というワニダさんの思いから、実現しました。
続いて、役所からすぐ近くの一村一品運動の生産物の販売所がならぶ、立派な建物に到着。1Fはショップ、真ん中の広いスペースを囲むような建物でした。政府により建てられ、光熱費は無料。賃料もなし、だそうです。
でもその後の政府の動きは鈍く、空き店舗もあり、ワニダさんはなんとか活性化したいということで、私たちの訪問も喜んでくださいました。箱物はできたが….と、どこでもにたようなことがあるのですね。
東北タイ(イサーン)からラオスでは、結婚式やお正月など事あるごとに、行われる儀式だそうです。塔のようなところから糸が下がり、それを周りを囲んで座っている人が手にとりみんなでつながる。お経がはじまった。ひもが動く。つながっていると感じる。お経が終わったら外向きにみんなが座る。糸を持った人が私たちに「幸せ」や「夢が叶う」ように手首に白いひもを巻き付けて行った。10人くらいの人から結んでもらった。
ビュッフェスタイルで食事のあと人気のウォーリーブローチやお魚巾着のデモンストレーションを見ました。
人形ブローチは、足になるワイヤーの先に綿をからめ、接着剤でくるくるまとめてきます。頭になる部分も綿で作り、何度も接着剤でまるくまとめ、その真ん中に、先ほど両サイドに足の部分を丸めたワイヤーを二つに折り、頭に差し込みます。そのあとは手をつけ、服を着せていきますが、前日の雨のため(ラオスは雨期)生産者の人が来られなかったので、デモンストレーションはここまででした。
その後、生産者さんをまとめている代表の女性達と、実際の生産品の改良点などを話しあいました。
ツアー4日目 7月19日 ラオス モン族 タンピャオ村を訪ねる
SVAクラフトエイドの企画 ラオス・タイにクラフト生産者を訪ねる旅に行ってきました。
CAMAクラフトに8時過ぎ到着。
カマクラフトは、はじめ難民キャンプでハンディクラフトの材料を提供するくらいの小さな団体だった。
1990年国に戻ることが出来た。ラオスに戻ってきても支援を続け、外国にも輸出をするようになった。医療器具・食べ物・お金の支援もするようになった。だんだんと商業的になってきた。今日注文して、明日できてくるように回転が良くなってきた。
10の村を支援している。ルアンパバーン・ビエンチャン・諸外国へ販路を持つ。生活水準があがってきたという声もある。低所得者の現金収入の支援をしている。村の言葉ではなくラオス語を話すための学校支援。社会参加の仕方がわからない村人のためにライフスキルを伝授。新しい技術面学び、伝統的なものとトレンドを組みあわせるなど、情報を提供していく。材料は90%タイから入手。コットン100%又はコットン35%ポリエステル65%の材料が使われている。SVAはコットン100%を要望している。
事務所から「Tan Peaw Village」を陸路1時間くらいで尋ねた。幹線道路を左に折れると赤土のくぼみに雨がたまった道を20Kmくらいの速度ですすsむ、両脇には水田もあり田植えをしていた。
1993年難民生活から戻ってきた。行政と国連が家などをサポートしてくれた。カマ・クラフトに村人はサポートのお願いに行った。国連はおおきく動くけれど少数の人々を忘れてはいけない。
村を訪ねたときは、女性ばかり、そしてたくさんのたくさんの子どもたち、男性はみんな畑にでて農作業。村長さんの話に寄れば935人がこの村でくらしている。
3週間に一度訪ねてくるカマ・クラフトのスタッフから、次の仕事の布を伝票と一緒に渡される。そしてそれまでに出来た仕事を渡し、検品をうけお金をうけとる。町から離れて暮らす人々にとっての大切な取引がここにある。
ただ、この取引が、足元みられ低い報酬しか受けられない場合も想像できるし、実際フェアトレードでとり引きされないところでは、20%くらいはここより低いようです。
カマクラフトの事務所の人と村人のやりとりのあと、「モン族の衣装を着たい人!」との呼びかけがあり手をあげました。
ラオスはこの時期雨期で、朝も雨が降っていたので赤土がぬかるんでいました。でも森のなかでの交流する時はやんでいました。
この夜は、友好橋を渡ってタイへ行きました。5日目は、タイのノンカイへゆき、ハウス オブ ハンディクラフト へ行きます。
SVAクラフトツアー3日目 7月18日 ラオス モン族 シビライ村を訪ねる
SVAクラフトエイドの企画 ラオス・タイにクラフト生産者を訪ねる旅に行ってきました。
朝7時にホテルを出発して、3時間ほどで帰還難民の村、シビライ村に到着。SVAのスタディツアーの生産品では、ハートマスコット・財布があり2006年のカタログではショルダーバッグもあり、それはとても素敵な彩りのクロスステッチが施されていました。
そんな村を直接訪ねるということは、本当に心待ちした瞬間でした。前もっての説明どおり、斜面にはりつくような感じで家があり、ばんばんトラックなどが走る道路をはさんで、また斜面に家がある。そんな村でした。
ワーピアション村長さんの話に寄れば村民は243人、うち女性は122人。15歳以下は115人と子どもがいっぱい。農業中心でハンディクラフトを作っている。高校がないのでなんとか作りたい。隣の村長さんも同席。教育に注ぐ思いを語られた。
村人と一緒に餅つきをしました。
細長い丸太をくりぬいた中に蒸した餅米を入れ、杵で二人でつきます。日本の餅つきと違うのは、臼が長方形、杵が軽い、水をつけて手返しをしないので餅と杵がくっついて、持ち上げるのが大変。モン族の若手は決まっている。一方の日本側は、杵の軽さと、くっつく餅を引き離す力不足で、周りの子ども達の笑いをおおいに誘った。
もりあがった餅つきでした。
昼食を村長の家で頂きました。魚を揚げたもの、ご飯、タピオカと芋の入ったデザートのようなもの、バナナ、餅は蜂蜜をつけて食べるようでした。日本から持参した海苔としょうゆは、甘さとは反対の味覚なので、シビライ村の人もとまどった様子でした。
昼食後、女性達の刺繍をするところを見せてもらいました。時間をみつけては、膝に布を置き、色とりどりの刺繍糸を自分の感性でクロスステッチしてゆきます。それは刺繍するお母さんの袂で遊びます。そして針を持てる頃になると、端っこのほうの部分をさせてもらいます。やがて順次任されるのでしょう。民族衣装を自らつくる伝統的なこの刺繍は、難民時代にも作っていました。
同じ柄でいくつも作るという商業ベースは彼女らにはあいません。なぜならおしゃべりしながら、みんなと楽しく、そして創作の楽しさを味わいながら、「刺繍する事が楽しい!」と彼女らは語るからです。自らの思いを刺繍の糸に託して表現する、それは仕事と言うより生活の中の大切な創造時間で、生きる源なのでしょう。日本にきて一つ一つ違う柄を見る時、私たちはどれもこれも素晴らしく選ぶ楽しさと難しさを味わいます。
そんな思いの刺繍がされた生産品も市場にいけば、観光客に値切られ手元に届く報酬はその思いや技術に見合った物ではないでしょう。シビライ村はまだフェアトレードとしての組織化にはまだなっていませんが、村の人と難民キャンプ以来家族のように、またおかあさんと慕われている安井清子さんを通じて、SVAに届きます。これはフェアトレードの中では分類すれば提携型に属すでしょう。
フェアトレードのマークも何もありませんが、生産者も仲介する人も引き取り買う団体も互いに尊重し合う関係での取引です。形ではなく目に見えないつながりで生産品が作る人から使う人へと手渡されていきます。
そのお金は年間を通じてお米が取れないシビライ村の人にとっては大切な現金収入です。教育費に生活費になります。刺繍は女性のものだけではなく、村長をはじめ男性も手がけるそうです。
実際、下の刺繍は少年が刺繍しました。木から落ち、竹にささった所を助けられたそうですが、入退院があり、ただでさえ貧しい生活のなかでのかかる医療費への苦労は大変なものと想像します。週末に3枚ほど仕上げるという刺繍のステッチは素晴らしいものでした。それを製品化するコーディネーターがシビライ村から生まれるともっと収入が増え、臨時支出にも対応ができるようになると思います。
2007年に行ったメキシコのコーヒーなどの生産者のトセパン組合は、組合委員のための銀行をつくりました。営利目的ではないので、預ける時の利子は高くつけ、借りる時の利子は少ないそうです。
★11月6日 メキシコからトセパン組合の話をしてくださる人が、「森を育てるフェアトレード」の公開講座のため来名予定です。
シビライ村にも若者が世界のこのような事例を勉強し、村に持ち込んでくれたらいいなっと思います。情報の不足は発達を拒みます。出入りする人達が情報を提供し、相談にのってあげれるといいなと思います。
どちらにせよ、現金収入を得ることです。今回も生産品の改良点や新製品の提案なども直接生産者の人と話す事ができました。
今回のシビライ村での出来事の一つに、昼食後、小柄なおばあさん(と言っても多分私くらいの年齢の人)にモン語で「ワッジョ=こんにちわ」と声をかけたら、互いに手を取り、なんだか自然にハグした。東洋人にはないことだけれど、ハグしあいながら語り合う目は、今回この訪問では口に出来ない難民時代のこと、それを彼女は目で語っていたと思う。
私も前日の前もっての安井さんのレクチャーで20年近くの難民キャンプ時代のこと、帰還してからのこと、その時代を生きてきたことに思いをめぐらした時、涙が出てきた。彼女もそうだった。指で数える仕草もしていた。私にはわからないけれど、「たいへんだったね~」という思いでハグしていた。自分自身不思議な行動でした。彼女の手が私の涙を拭いてくれた。
そのあと刺繍する現場では、彼女が針を持って刺繍をしていた。白い布にしていたので誰かが聞いた。「なぜ白い布にするのですか?」と。答えは、死に装束ということでした。女性の平均寿命54歳というラオスでは40~50歳になればそのような準備も有るのかもしれない。私は平均年齢はとうに過ぎている。死に装束の衣装までは考えていないけれど、どうしたらこのまわりに物を片づけたらいいのか考えている。シンプルに暮らしたいと思う。
私にできることは?
SVAという団体を通じて、今回出会ったシビライ村の現金収入の道を造りたい。後継者は一杯いると村人の話。確かに!! 子どもらは一杯いる!
素晴らしい感性と技のモン族。それらを生かし世界に誇る伝統文化を発信、自らの歴史も語り、互いに平和に暮らす事ができるように出会ったところからつながってゆきたい。語って行きたい。