2019年8月13日(火)
8月4日に乗船して、10日たち、目的の広島・鹿児島・長崎も終わりICANの川崎さんの話も聞けて良かった。
あとの目標の地は、釜石の大川小学校のみ。なので暇である。
2日前からのどがいがらっぽく風邪をひき、遠慮して咳をすることになった。でも漢方頂いたりよくしてもらっている。太極拳24では、咳する私を振り向いた女性がいる。すなわち風邪をひいているから来るなって感じ。ま~くしゃみや鼻水がとまったら行くけれど、それまでは休み。ということはすべて止めるということなのでかなり暇。
でも基本、寄港は1日おきだからそれほどもてあますことはないと思う。
さて
やっぱり野入が恋しいね~。野入がいいね~。蓮の花も3つめ4つめ5つ目と咲いているようです。
今回は、4人部屋ということで特別仕事ももって来ていない。本も8Fにあるからいいと思ったけれど、部屋には持ち帰れないので今のところ読んでいない。
8月14日(水)
ウラジオストックに7時着で、8時半歓迎のダンスや歌があった。女性6人、男性3人の踊り子の踊りや、歌があった。「カチューシャ」りんごの花ほころび、川面にかすみたつ、きみな~き郷にも春はしのびよりる。歌はいい~万国共通。
まさにピースボートは国際交流と感じた。始まる前に流れていた「エリーゼのために」となぜか「コンドルは飛んで行く」私はやはり南米がいいな~と思う。今日も思いがけないじ~んと感じる旅の感動。
今朝、川崎哲(あきら)さんと同じテーブルだった。近くでみるとやはり50歳か、「あなたの講演のお陰で旅が充実した」と伝えた。私は今回初めて彼の話を聞いたのだが、聞く所によると、彼の話も順次上手になってきたようだ。とても分かりやすい話の運びで私にも「核兵器はなくせる」と思った。皆が知ることから始まって、行動する。果てしない道のようだが一歩は踏み出せる。
鼻水もでるし~~~、なにせ4人部屋だし、風邪ひくと肩身がせまい。今、百田(ひゃくた)尚樹の「永遠の0」読みはじめた。0が零戦の意味の本とは知らなかった。
百田尚樹って安部派の人だけれど、ほんとうに上手にしたてた物語。やはり、男とか国とかが強い、感じかたが女性とは違う。でも特攻隊のことを知る手がかりにはなった。偶然に手にとった1冊が、今回の旅の一つのテーマの資料になった。また男性達が考える世界も垣間見た。この世は、女性と男性のバランスを取らなければならない。それには市川房枝さんも言っているように、女性が政治に関心をもたないと平和はこない。
《お知らせ》11月30日(第5土)10時~「だらっと憲法カフェ」
8月15日(木)
講演「8月15日に考える これからの戦争と平和」川崎哲&畠山澄子
戦後74年 ロボット兵器も出現。漫画で伝えるロボット兵器の書籍購入。
8月16日(金)
小樽着 オプショナルツアー参加
「先住民アイヌの文化を学ぶ」札幌のアイヌ文化交流センター
(サッポロピリカコタン)小樽と札幌が1時間くらいとは知らなかった。行き道の原生林が稲武にあるやせやせの杉林とは違い、素敵な森だった。
ユウキコウジさん案内
ピリカとはGood かわいい よいという意味
アムール川さかのぼって交流
アイヌは人(人間)という意味
人に役立つものに育ててくれるものすべてカムイ
神々に囲まれて生きている
人は旅する生きもの オホーツク・シルクロード・アイヌ
アイヌの人口は ミックスされている かたまった集落があるわけではない
今1万2000人くらいといわれているが実際はその3倍かも
明治23年旧土人法 一般の日本人になる為の法律
土地は神様のもの 移動していたが→定住するようになった。
食べ物がやってきて、礼節が発生し祈りをする 他の生物に生かされている
70年まえから鮭がこなくなった ダムを造ったから
イランカラッペ
イは、尊敬する ランは心 カラッペはさわる
あなたのこころにさわらせてください。
シシャモ
ラッコ
トナカイ(サハリのアイヌ) はアイヌ語から
ソ~ラン節の
ソは、波の面のこと
ランは、降りること
私とアイヌとの出会いは、小学校の頃だと思うけれど、ラジオで「みどりのコタン」という番組があり、アイヌゆえの差別もあった話なんだと思う。テーマ曲を今でも思いだすほどで印象的だった。差別に関して思うことのある始めての出会いだった。
さて大型台風がきているとのことで小樽で停泊
17日15時出発、 18日は函館 予定の釧路寄港はなくなった。知床遊覧もなくなった。
8月17日(土)
2014年11月~の第86回の南周りクルーズ乗船から5年たっている。先回一緒だった女性一人は杖をついて、一人はちょっとぼけが入っているようだ。
旅も後半。14日2週間が過ぎた。あと18日~6日間。野入が恋しい。蓮の花がみたい。私が植えた里芋や生姜はどうなっているかな~~~?
今回の旅行勿論参加してよかった。いままで核の問題は原発関係では気持が向いていたけれど、核問題まではあまり考え無かった。でもやはり考えなければならない事だと思う。その機会をもらった。
8月18日(日)室蘭11時ごろ着
フェアトレード(FT)の店とJAZZの店の情報をもらったけれど、営業していなかったり、休みだったり、でもバップは行けた。49年やっているJAZZ喫茶。すごいよね。
はこだて工芸、以前ネパリ・バザーロ(フェアトレード団体)の旅行で来たと思うけれど。FTは食品はほんのわずか、マスコバド糖とチョコ2枚、FTといっているハーブ,衣類はまったく無し。
8月19日(月)
日の出は4時46分、飛び起きちょうど雲から出始めたところだった。
安曇野のSのりこさんとデッキで会って1時間ぐらい話をした。八丈島でスキューバーダイビングの店や、宿や、ショップもしていたということ。今日は室蘭。始めての町。
11時頃電話しても「ほしのおくりもの」は電話にでない。あきらめて1000円の巡回バスにのり地球岬へ、曇なのですぐ次のバスに乗る。隣の人が室蘭駅で下車すると言われ、そうだ! 駅にも降りてみようと思って降りてた。
珈琲店があったので行こうと思ったらお茶のみと張り紙があったので次ぎのCAFÉ CAFÉへ葉言った。一度は通りすぎたけれど、ドアがあまりにふるびていたので年数がたった店だと思い入った。
室蘭民報:ウポポイ(白老・象徴空間)北日本初の国立博物館、国立アイヌ民族博物館を核とするアイヌ文化復興のナショナルセンター「民族共生象徴空間」通称ウポポイが8ヶ月後オープに迫っている記事
小さな店。よかった。トーストを頼んだ。珈琲とで750円。船ではパンが美味しくないのでほとんど食べない。だから昨日もバップでトースト頼み美味しかった。
ここでもトースト頼み大満足。そのあと室蘭駅でダメと思いつつ12時ごろ店に電話する。「ほしのおくりもの」は営業していた。で東室蘭まで220円10分くらいで行く所を30分以上待って乗った。
駅からすぐ近くだった。たしかにFTのものはあった。ピープルツリーなどの懐かし品もあるので10年以上はやっていると思った。15年だそうだ。癒やしのCDや本もあり、木製のおもちゃもあり。
「ほしのおくりもの」でアイヌに言葉が載っているトランプと、孫への手紙用にピリカメノコの可愛い女の子の絵はがきを購入。切手を〒局で購入し、思ったより早めの電車があり室蘭へもどり、バスに乗る。」
その間パンフレットにたまたまみつけた、JAZZの店。見晴らしもいいという。出かけたら道は行き止まり。立ち入り禁止と道がなっていた。あきらめ一旦もどり、振り返ったら岬の看板。
こっちかな~と思い全く人はいない交差点で、車止めて聞こうかなと思っていたら、向こうから一人の男の人、聞いてみたらPB(ピーズボート)の人で同じ店を目指していた。向こうもビックリしていた。PBらしい人がいるけれど、どうしてこんなところにぽつんといるのかと?
彼は、たばこやとかで聞いてやってきたので情報はパンフレットの地図より詳しかった。岬の方へ歩いていって信号を右に入って、それからがまたわからなかった。
たまたまいた人に聞いて、それでもわかりにくく、でもなんとかたどりついた。
宮越屋珈琲MUTEKIROUムテキロウ室蘭市絵鞆(トモ)町2丁目11番1号0143(27)0001 やきとり一平チェーン8店もある。経営者の趣味の店かしら?
テーブルは5~6あったがすべてお客さん。全部車での来客と思う。辺鄙なところだもの。三方が海、全部ガラス張り。カモメもすぐ近くを飛ぶ。
天気ならもっとすごいと思うけれど、景色だけではない、店内の雰囲気もいい。彼はもう一度来たいと言っていた。
長野県のKさんというけれど、3人のお子、孫は6人だそうだ。定年退職後上田市武石ともしび博物館の館長していて、今も週2日行っているそうだ。
ほんとに彼にばったり出会わなかったら、私が声をかけなかったら、あの素敵なある意味、理想的な店にはたどりつかなかった。多分店主はやきとりやで資金があり贅沢な店を構えたのだと思う。CDも一杯あった。Kさんの言うことにゃ、スピーカーは一対で2500万円、アンプも2500万円ホントかな??彼はオーディオマニアだそうです。
今日はこんな1日でした。
8月20日(火)
4時半にはデッキ、でも立ち入り禁止で出られず。でも海を見ながら、海の上を歩く感じはいい。寄港地に寄らない、つまりでかけない日は6時くらいまで2000歩目標であるく。出かけると15000歩くらいまではゆく。夜は9時前にも寝てしまう。
8月21日(水)
石巻、震災の被災地に一度は足を運ばなければと思っていたので「語り部とめぐる震災遺構」に参加。バスでもずっと同行の語り部さんは、3・11のその日出たスーツが全財産になった。家族は無事だったがすべて流された人。
旧大川小学校での語り部は、中学校で教師をしていた人で次女6年生を亡くした人。あと一週間で卒業という3月11日のその日、制服が届くはずだった。全校生徒108名のうち74名が命を落とした。50kmの速度の津波が来るまでに50分はあったという。
野外劇場にあった絵 すぐ裏の山に登りました。すぐです。
裏山があり、日頃椎茸栽培で登っていた。生徒の中には山に登る子もいたが戻された。運動場で並んでそのあと人一人通れるほどの出入り口を通じて出終わったあとくらいに津波にのまれた。語り部は教師なので教師は誰でも子どものことを思っているとは言う。
いろいろ調べたようで日頃体制の問題があるような含みの語りもあった。実際そのあとの旧門脇小学校は高台に避難して無事だった。
防災について、そのなかには我が家んも含まれるという想像、家族が含まれるという想像がたいせつで、想像したくないから止める。防災は脅すことではない、恐怖をあおることでもない。どう判断して行動するかが大事。
旧大川小学校は残すか撤去するか誰もなにもいわなかったが、奇跡的に助かったてつや君が決めた。「残して欲しい」いろいろ言われたりもしたがひらきなおって中学に行っても同じように発言。2016年3月残すことに決まった。
実際、8年の月日が流れると当時のことはほとんど分からない。現在川には防波堤が建設されている。旧北上側から4mのたかさの防波堤は、幅が広く屋台なども出せるようになっている。しかしその下は家があった。商店があったとは信じられない。
「防災街歩き」では「石巻津波伝承AR」で、津波による被害状況(高い所で7.5mの津波の高さなど)やポイント、ポイントで「現在・過去・ミライ」を画像で伝える。現在の場所で、震災当時の画像が見られる。
街をバスで走ると緑色の正方形のマークがビルなどにある。それは津波避難ビルに指定されているビルで、外に階段があり普段は鍵がかけられていても、一定の揺れがあると鍵ははずされ、屋上では食べ物などの防災グッズが備蓄されているという。
復興はたしかにめざましいものだが、人の心の痛手は深く続くものだと思う。それをも乗り越え女性の語り部は「涙ぐんだらすみません」と断りをいれながらも自らの経験を語る。
避難所を親を探して渡り歩いた、避難所で2ヶ月過ごして仮設住宅に入った。と言葉では終わるけれどどんなに大変だったろうと思う。
その大変な人々をPBV*は600人ものボランティアをコーディネイトしていた。若者たちが一週間の予定が伸びたりする。
*一般社団法人ピースボート災害ボランティアセンター(PBV)http://pbv.or.jp/は2011年4月東日本大震災を受けて設立。1995年の阪神・淡路大震災以来、世界各地で災害救援を行ってきた国際NGOピースボートでの想いと経験を受け継いで活動。
最後の出港地となった石巻で、波頭では地元の人のはねこ踊りと花笠音頭を船上から見せてもらって、船上では「最後の出港式」をデッキで開催。
「花は咲く」の合唱が歌われ石巻ならではの体験の想い出とともに汽笛を鳴らし、船は岸壁を離れる。灯りを手に振る見送りしてくださる人々、やはり人が人と会って顔をみて交流することが大切だと思った。
船という一つの舞台のなせる技か、若者たちが運営するこのピースボートが、日本の各地を結び、世界をも結ぶ大きな、密かな力が私には快く応援したくなる。
勉強させてもらう船であり、ドラマティックな人と人との出会いもある。今回、旅に出て本当によかった。ただ体力的にはもうこれでいいかな~3ヶ月の旅への旅立ちの意欲は薄れたという思い。ちょっと自分自身意外だった。
4人部屋だったからか? でも楽しい4人部屋でいやなことなんか何もない。折り紙教えてもらったらい、ラインダンスも一緒にできたり、一人ならできないこともしできた。